飯田哲也選手2

数々の、紅陵野球部からプロ入りした選手がいますが、多方面から見てイメージ・記憶・インパクトの部分では、飯田選手が一番かと思うので(個人的にプロではスワの大ファンなのもありますが)飯田選手のプロの思い出を。最初に、ヤクルト・飯田哲也を観に行ったのは89年の5月頃?だったと思いますが、武蔵浦和のロッテ球場に、ファームの試合を観に行きました。言うまでもなく、当時は背番号59のキャッチャーでした(関係ないけど、その試合。伊良部と当時ルーキーだった現在読売の前田も投げていた!!)

紅陵時代から、特別体は大きい部類じゃないとは思ってましたが、やはり大男のプロ集団に入ると「小さい!!」そう感じました。その試合は、途中出場で打席にも一度しか?立ちませんでしたが(確か、セカンドフライ?)次の年からは、監督が野村に変わり一軍定着。一軍定着といえば、90年の3月某日のサンスポに『捕手で盗塁王・ヤクルト飯田』紅陵生はじめてのスポーツ紙一面を飾った事がありました(今でも取ってあります)あれは嬉しかった。ユマキャンプで、野村に認められ、八重樫・秦・古田と捕手3人枠を争ってました。この年、シーズンに入り正二塁手の苫篠が不調で?急遽急造セカンドで二塁に入り、以下の活躍は承知の通りでした。

飯田選手、一軍定着後は多い時で月1、忙しい時だとシーズンに数回神宮へ通いました。本当に、スワファンだけに思い出は尽きないのですが、最初は、完全にブレイクした92年ドームの読売戦。ランナー3塁(元木)でセンターフライが上がり、一旦深めに下がり、そこから助走をつけて走ってきて勢いよくバックホーム・元木楽々アウト!!同年だと8月に当時の西宮で阪神と直接対決で葛西?からだったか先頭打者ホームランを打ったのも記憶にあります。

93年だと、守備の達人・飯田哲也を印象付けた?西武との日本シリーズ第5戦。鈴木健のセンター前で二塁から苫篠の生還を阻止したレーザービーム。あれは凄かった!!

他にも、何を書いてよいのか分からないほど?数々の場面が目に浮かびます。
また、飯田選手と言えば、その抜群の運動神経で暮の東京フレンドパーク兇箒敍刕嵒佞任粒萍?睨困譴討呂覆蠅泙擦鵝F辰法∈廼瓩泙罵ゾ.繊璽爐里澆僕燭┐蕕譴襦▲侫譽鵐疋僉璽のSPの出場。スワは90年代93・95・97と出場しましたが、私の記憶が確かなら、一番最初のゲーム「ウォールクラッシュ」でプロ野球選手で最初にクリアに達したのは、他でもない飯田哲也が最初です。

無駄に、いろいろと尽きない思い出を書いてきましたが(他にも多々ありますが、訳が分からなくなるほど、有り過ぎまして...)

また、機会がありましたら、飯田選手3で。

あっ!!飯田選手と言えば絶対に忘れられないのが、97年スワがセリーグで優勝して祝勝会場で、ビールかけの前に当時の桑原オーナーの挨拶があり「リーグ優勝おめでとうございます。・・・・・・取り敢えずのご褒美に何が良いかと考えまして、明日私個人の口座から300万下ろしてきますので、それを皆さんで分けて頂きたいかと・・・」スワナイン「ウォ~~~!!」その時陰からの声で『え~~それだけ??』古田振り返って、おいおいってな顔で笑う。その『え~~それだけ』その声こそ飯田選手でした(大笑)私にとって、この飛んだ発言こそが飯田選手。一番の思い出かも知れません(笑)